CRAFT

琉球ガラスについて

上原徳三

沖縄県工芸士 / 平成14年 認定番号25
平成24年度 沖縄県優秀技能者 知事表彰

  • 昭和27年11月20日沖縄県那覇市松川出身
  • 真和志中学校卒業
  • 叔父さんなど親戚が複数いた奥原ガラスに見習いとして勤務
  • 雑用3年・すりきり2年・型押し2年・カッパ3年・玉取り3年の十数年間の修行時代を過ごし、琉球ガラス職人に。
  • 昭和58年に、奥原ガラスなど小規模ガラス工場6社が結集し設立した、琉球ガラス村の前身である協同組合に在籍
  • ガラス一筋39年
  • ガラス職人になっていなかったら…大工かな

まずは基本

時代が違うといえばそれまでであるが、上原さんは壮絶なる下積み時代を過ごしている。親戚の多かった奥原ガラスに誘われ仕事を始めたが、職人のスタート地点に立つには十数年の年月がかかっている。現在の土産物中心の工芸品の琉球ガラスではなく、ランプのホヤ、病院向けの薬瓶や香水瓶、一銭マチグァーのお菓子の容器など日用品ばかりを作っていた当時のガラス工場。薬瓶だけでも一日約千個と作る忙しさで、職人も見習いも大勢おり、後継者を育てるという発想は皆無で、その日の仕事をこなすというのが手一杯だった時代だったようです。

まず始めの3年は工場の外の雑用で、材料の空き瓶の洗いと割り、出来たカレットを何度も洗い、重油の他にガラスが冷めないように燃やしていた燃料の薪割りなど。次の2年はガラス瓶とガラス製のフタをすり合わせて、密閉度を上げるすりきり作業。5年たってようやく工場に入ることが許されたが、2年間は型押しの押さえ、3年間はボンテンのかわりに完成品をつかんでいたカッパ作業。10年たってようやく竿を持たせてもらったが、当時は今より分業が進んでおり、素地の玉取りばかりを3年。吹き竿を持たせてもらうには十数年かかったとのこと。

何度も逃げ出してしまいたいほどつらい仕事だったけど、気がつくと親戚たちに「頑張りなさい」と言われたんだよねと笑っていう上原さん…その時の下積み時代に築いた基礎があるから、応用も効くし、今の私もあるもかなと糸満工場の4代目の工場長で、現総責任者の上原さんは続けて語ってくれました。

見て盗む

電気がまだ完全に普及していなく停電も多い頃だったので、各家庭ではオイルランプが必需品。大忙しのホヤ作りでは、薄い方が熱に強くて割れにくいので、なるべく薄く作るらしいのです。そして出来上がった完成品は、みな重さが一定というレベルの高さ。検品係が重さを量ろうとしたら、「もし重さが違ったら私に言ってきなさい」という職人ばかりだったようです。実際量るとこれがまたきれいに同じだったらしい…。当時のガラス職人は技術もプライドもとっても高かったようです。

「技術は見て盗め」と教わってきた上原さん。調合・窯炊き担当の職人が24時間三交替で窯を管理し、完璧な材料で完璧なガラスを作り続けていた時代でした。ガラス素地に気泡やゴミなど入ることなどありえなかったので休憩時間に練習なんてことは許されなかった。見習いが熔解窯など触らせてもらえる訳もなく…というか工場内にも入れてもらえなかった。厳しい職人ばかりで、失敗すると怒鳴られる日々が長く続いた。 そんな先輩たちが唯一技術指導してくれるのが、お酒を飲んでいる時だったらしいです。当時のガラス職人は職人気質の人ばかりだったと思い出すように話してくれた上原さん。飲み方も酔い方も半端じゃなかったようです。でもどんなに飲んで一日くらい寝なくても、しっかり出社してきて、きちんと仕事をこなしていたとのこと。

厳しい先輩たちも酔いがまわるにつけ、色々と仕事のアドバイスをくれたみたいです。「あの失敗の原因はこうだ」「あの時のミスはこう対処すべきだ」と話してくれるのが楽しみで、ビールもほとんど飲めなかった上原さんが、連日の飲み会のお供をしているうちに段々と飲めるようになったとか。でも先輩職人たちはすぐ酔い過ぎて、仕事の話は終わってしまうので、話を聞くチャンスはとっても短かったらしいんです。しかも折角聞いた話なんですが、付き合っているうちに上原さんの方も酔っ払ってしまってほとんど忘れちゃう…。覚えているのは「飲まないといい職人にはなれないってことだけかな」と素敵な笑顔で話してくれました。

ハエ取りガラス

ガラスギャラリーにあった、ガラス製のハエ取り器を見せながら「当時、私もよく作ったよ」と上原さんは説明してくれました。ハエは器の下に置いた食べ物の残りものなどのエサの臭いにつられて寄ってきて、ビンの中に入る。真下に降りることができないので、容器の中の石鹸水の中にたまっていくそうです。石鹸水を取り替える時に上のフタをはずして入れ替える。明治44年頃に外国から伝わった薬品を使わないエコ商品。各家庭に設置義務があった時代もある大ヒット商品だったそうです。

上原さんがハエ取り器を作っていた頃、仕上げの後に徐冷窯まで運ぶ作業に現在のようにボンテ竿ではなく、「カッパ」と呼ばれる道具が使われていた。言葉で説明するのは難しいのですが、マジックハンドみたいに全体をつかむように挟んで固定するもので、これを上手に使うとボンテ跡が残らない。 そして、素人若造をビックリさせたのは、ガラス製の吹き竿のお話。同じ薬瓶などを何百、何千と作るので、工程を短くして時間を短縮するために金属製ではなく、ガラス製のものを使用していたとのこと。中が空洞のガラス棒を25メートルほど引っ張って作るらしいです。急に引っ張ると薄くなるので拡声器で指示を出す職人のもとゆっくりと、地面に着くと温度差で割れてしまうので板を敷いての作業。やわらかいとすぐに垂れてくるし、もちろんねじってはいけない。上原さんも下積み時代にはそればかり毎日何十本と作ったこともあるとのことですが、慎重に慎重を重ねるけど、何度も失敗して怒鳴られる。数々のプレッシャーの中の作業だったらしいです。

ガラス製の吹き竿は使えば使うほど短くなっていきます。ストローぐらいの長さの吹き竿をイメージしたが、もちろんそんなに短くなるまでは使わないのであしからず…。

やっぱりガラスが好き

ベトナムのハノイ工場が出来て10年。上原さんは立ち上げの工場の建設や現地スタッフの技術指導からもちろんたずさわっている。今でこそ、安定した商品の供給が行われるようになりましたが、その苦労は並大抵のことではない。 国民性の違いもあるし、ガラス作りを知らない通訳が介して、誤解が生じたこともしばしばあった。つらい下積み時代を続けてこられたのも、ベトナム工場を軌道にのせることが出来たのもやっぱり、「ガラス作りが好きだから」と上原さんは語ってくれました。

現在でも年の数ヶ月はベトナムで仕事をする上原さん。技術指導や生産管理はもちろんですが、工場に隣接する宿舎に寝泊りして、24時間の様々なことに対応している。まだまだ停電も多いし、窯の不具合など何かあると真夜中でも起こされる。上原さんのそんな時の対応は、まるで『窯のお医者さん』。「どうしたの?」と窯に話しかけると窯が「苦しい」と答えてくれるので、症状に応じてボイラーのすすをきれいにしたり、酸素を多く送ったり対応するらしいんです。「窯の炎の色を見ると調子がわかるんだよ。いい時は窯から出る炎が笑っているからね。窯と話ができて一人前かな。」と本当に楽しそうに話してくれました。

沖縄のガラス職人は、ガラス作りが好きだから仕事を続けている人ばかりだけれど、ベトナムではまだまだ生活のために働いているようです。10年後には、ベトナムでもガラス作りが好きだから働いているという人たちばかりにしたいんだよと最後に今後の目標を語ってくれた上原さんでした。

聞き手:和家若造

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