琉球ガラスの歴史

琉球ガラスとは?

日本のガラスの歴史

紀元前1世紀頃
ガラスの伝来
はるばるシルクロードや北方ルート、南方海路などを経て伝来してきました。弥生時代の遺跡から発見されたガラス玉が、日本最古のガラスと言われています。
6世紀以降
(飛鳥・奈良時代)
仏教の伝来とともに、仏像や仏具の装飾用のガラス玉などが作られるようになりました。この頃のガラスは「瑠璃」と呼ばれています。しかし、平安時代にはその技法は絶えてしまい600年余の空白の時代となりました。
16世紀
長崎ガラス
長崎にポルトガルやオランダの製造技術が渡来し、本格的にガラス製造が始まりました。この頃の呼び名は「びいどろ(Vidro:ポルトガル語)」や「ぎやまん(Diamant:オランダ語)」でした。
19世紀
薩摩切子
薩摩藩主、島津斉興が、江戸のガラス工人を招いて作らせたのが始まりです。
20世紀~近代・現代
明治9年、政府による官営工業品川硝子製造所が開設されました。この頃からオランダから伝わった「硝子(Glas)」という言葉が一般的に使われるようになりました。日本のガラスは手工業から工場生産へと近代化の道を歩み、現在に継がれています。

琉球ガラスのあゆみ

17世紀
ガラスの伝来
1690年に、画家の平田典通が円覚寺の「開山和尚像」を作った際、和尚像の義眼に焼玉(ガラス玉)を使ったとの記録が残っていることから、1600年代には沖縄にガラスが伝わったと考えられています。また、「琉球国旧記」の技術の部には、1730年代の職種に「焼玉」とあり、これはガラス職人のことではないかと考えられています。
明治
(1868~1912年)
の中期頃

明治以前、沖縄で使われていたガラス製品のほとんどが日本本土からの輸入でしたが、船の揺れなどで破損が多かったことから、長崎や大阪からガラス職人を呼び、沖縄でのガラス製造が始まったといわれています。一升瓶や醤油瓶などの透明瓶の屑ガラスを原料として、実用的な「ランプのほや」「駄菓子瓶」「蠅取り瓶」などの生活必需品が沖縄県全域向けに製作されていました。

第2次世界大戦
1944年10月10日の米軍による那覇大空襲で、県内のガラス工房全てが那覇市街と共に全焼してしまったため、今では戦前のガラス製品はほとんど残っていません。
戦後1947年頃

戦後まもない頃、ガラス工房ができる以前には、コーラ瓶の底を切り離しコップとして使っていました。後に、那覇市でガラス製造が再開されましたが、戦後の物資不足・プラスティック製品の登場により、ガラス製品が売れない時期が続きました。

1950年代
終わり頃

米軍人やその家族が、カラフルな現物サンプルや写真を工房に持ち込み、日用の器、本国への土産物として注文をするようになりました。大量の注文に対応するため、軍施設から消費・放棄され出回ったコーラやジュース、ビール、ウイスキーの空き瓶を活用し、5色(透明・薄青・茶・緑・黒)の色ガラスとして新たに復興しました。当時の製品は、アメリカ的生活様式・用途による外国の方が好むような装飾的な軍品物が中心で、その中には現在も継続して造られているデザインも少なくはありません。

1960年代
ベトナム戦争景気が起こり、米軍人の本国への土産品としての注文が殺到したため、県内に次々とガラス工房が設立されました。
1972年
沖縄の本土復帰
「沖縄海洋博覧会」開催を契機に沖縄観光が本格化し、本土からの観光客へのお土産品として需要を拡大していきます。着色にもいろいろな技法が取り入れられ、廃瓶に代わり原料ガラスを使用する工房が増えてきました。
1983年
協同組合設立
県内8社の琉球ガラス工房のうち、北部を除く中南部の6社が合併し、共同仕入・共同販売の「琉球ガラス工芸協同組合」を設立しました。
1985年
「琉球ガラス村」オープン
「琉球ガラス工芸協同組合」を「琉球ガラス工芸協業組合」に組織変更し、組合直営の共同生産・販売施設「琉球ガラス村」が糸満市福地にオープンしました。
1990年
琉球ガラス始めての「現代の名工」
大城孝栄が琉球ガラスでは初めてとなる「現代の名工」(労働大臣表彰)に選出されました。
→ 「琉球ガラス美術館」にて作品を展示しています。
1994年
稲嶺盛吉が「現代の名工」(労働大臣表彰)に選出されました。
1998年
琉球ガラスが沖縄県の「伝統工芸品」に認定されました。
2001年
桃原正男が「現代の名工」(労働大臣表彰)に選出されました。
2002年~
観光土産品色の強かった琉球ガラスですが、現在では多くのメーカーや個人工房が増えはじめ、工芸品として確立し、独自の作品作りが始まっています。2002年時点で、沖縄には18箇所のガラス工房があります。
※参考文献:帆足英二『招聘研究報告琉球ガラスの現状と今後のデザイン展望』 2000年